くるみんとぽっかくんの西国三十三所巡礼

ぽっかくんは、前の会社で関西から関東に転勤してから、3年で関西に戻ってきました。関東への転勤前も、歴史ある関西の神社仏閣を訪問するのは好きでしたが、関西に戻った後に、たまたま訪れた奈良の飛鳥寺で御朱印帳を購入したのがきっかけで、関西のお寺巡りに目覚めてしまいました。

そんなぽっかくんとくるみんは、日本で最も歴史があり、近畿2府4県と岐阜県に点在する33箇所の観音信仰の霊場を札所とした西国三十三所巡礼の自家用車による旅を、急がず・焦らず・のんびりと続けています。

以下は、西国三十三所札所会のホームページに掲載されている西国三十三所巡礼に関する情報です。

観音巡礼の開創伝説と再興

養老2年(718年)のある日、大和長谷寺の徳道上人は、病いのため仮死状態になったとき、夢の中で閻魔王に出会います。閻魔王は、「おまえはまだまだ死ぬことを許さない。世の中には、悩み苦しむ人々がたくさんいる。その人々を救うために、33箇所の観音霊場をつくり、人々に巡礼をすすめなさい」といい、起請文と33の宝印を授けました。徳道上人は仮死状態から蘇り(黄泉がえり)、閻魔王から賜った33の宝印に従って、33箇所の霊場をつくりましたが、世の人々の信用を得られず、巡礼は発展しませんでした。徳道上人は、巡礼の機が熟するのを待つために、その宝印を摂津の中山寺の石櫃に納めたといわれています。

途絶えていた観音巡礼は、約270年後、花山法皇によって再興されることになります。円融天皇より帝位を譲られ、花山天皇となりますが、在位わずか2年で皇位を退き、法皇となりました。その後、比叡山で修業し、書寫山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、中山寺の弁光上人等を伴って、西国観音霊場を巡拝され、観音巡礼を再興しました。

巡礼の歴史

資料としては、嘉禄~天福年間(1225~1234年)成立の「寺門高僧記」第四に収録されている、園城寺の僧である行基による「観音霊場三十三所巡礼記」が最初です。行基の巡礼は寛治4年(1090年)の頃とされており、第一番長谷寺から始まり、第三十三番千手堂(三室戸寺)まででした。その後、三井寺の覚忠が巡り、番付は異なりますが、所属寺院は現行とほぼ同じでした。今日の巡礼を決定的なものとした点において、歴史的意義が深いと考えられています。時代が下がるにつれて、伊勢神宮参拝、熊野三山参拝などと結びついて、盛んになっていきました。

近畿地方に続いて、関東地方の坂東三十三所が開創されるに及んで、近畿地方の観音巡礼は「西国」の文字が冠されるようになり、室町時代には秩父巡礼も開創されました.その後、秩父観音霊場の割り込み運動などが発生しましたが、打開策として1箇所増やして秩父三十四所とし、西国、坂東とあわせて日本百観音が提唱されました。